第四章 天国街道
再び訪れる死――片岡さんのこと
こうして私の結核は順調に回復していった。しかし、死は常にここでは隣に控えていることに変わりはない。死神はなんの感傷も躊躇(ためら)いもなく、私の療友の枕元にも相変わらず立ち寄っていたのである。
板屋氏のあとのベッドに入院した片岡さんは八王子の生まれで、父君は尺八の先生とのこと。耽美派で、いささかペタンチックな明大の学生である。枕元に斉藤茂吉の『柿本人麻呂』の分厚い本がデンと置いてある。
添黒で豊かな長髪をオールバックにして、髭は濃いのであろう、毎日剃刀をあてている頬は青々としている。花王石鹸のマークを思わすシャクれた顔に掛けられたロイド眼鏡の奥の目は、いつもニコニコしている楽天家である。
女性を礼讃し、美に憧れ、芸術を論じる彼のオーバーな表現はいささか滑稽である。
自ら二枚目を自負しているが、顔や胴に比較して少し短い足は、チャップリン喜劇の主人公を連想させる。
夕食を済ませると彼は鏡に向かい、刷毛(はけ)でたっぷり石鹸の泡をつけた顔に剃刀をあてる。匂いの強い化粧水とパウダーで引き締めたあと、手鏡を使い時間をかけて長い髪の毛を、櫛とチックできれいに整える。
散歩着に着がえてから、さらに洗面所の鏡に向かって自分の姿を仔細に点検したあと、サマータイムで夕闇にはまだ時間のある園内の散歩に出かけて行くのである。
「ガールハントですか、頑張って下さい」
私が声をかけると、片手を挙げてニヤッと笑い両手を振って出て行く。雨の日を除き、この日課は全く変わらない。
夜の討論会の時、今日の収穫は、との質問に、
「いやあ駄目だ。ろくな女性はおらん」
と報告するのが常であった。
そして彼の持論の女性論が展開される。
彼の理論からいくと、若く美しい女性は全て彼に恋をしなければならない、という。
しかし、彼の独自の理論に反して現実は些か異なるようであった。
稔(みの)りのない散歩は、ひと夏続いた。
一人の可愛い看護婦に手紙を書いたことがあったが、それをなかなか渡すことが出来ない。手紙の文案は何週間もかかって造り上げた苦心の作なのだが、結局渡すことを諦めた。
「彼女はつまらん」
こう言って、その恋の終了したことを吾々に告げるのである。
その頃、個室に移っていた橋本さんは、暑い夏を精一杯に頑張って、秋の色が濃く迫りはじめた九月の終わり、木犀の花の香りの中で死んだ。
そして片岡氏はこの頃から熱発に悩まされはじめたのである。
毎日八度五分から九度の熱が続き、氷枕を使い、濡れタオルで額を冷やしている。
熱は午後から高くなるのである。
泣きそうな表情で
「困ったよ! 困ったよ!」
と吾々に訴える。
「風邪かも知れない。少し静かにしていれば熱も下がりますよ」
私はそう言って慰めるのだが、板屋氏の場合に症状が似ているので暗い予感にかられた。
日を重ねるにしたがい、体力も衰えるのであろう。
髭を剃らなくなり、青くやつれた頬に不精ヒゲがビッシリ生えて、哀れさがひとしおになった。
いつもニコニコしていた目は力なく閉じ、吾々を見る時も弱々しく訴えるように悲しげであった。
秋も深まる頃、片岡氏は個室に移り、板屋氏と全く同じように年が明けてすぐ亡くなった。
彼の最期を見送るべく、吾々は個室を訪れたが、あれ程に憧れた女性たちの姿は、彼の野辺の送りには一人も現れなかった。
おそらく病む彼の夢の中には何人もの美しい女性が、彼の広い枯野の中を追いつ追われつ戯れていたのであろうが……。
霊安所
診療棟のはずれ、隅田寮を右に見て、吾々が天国街道と称した坂道をだらだらと登る。雑木林の奥、赤松が何本か立派な枝ぶりを見せている中に、ひっそりと建つ小さな洋風の一軒家がある。
霊安所である。
その先はカーブを描いて下り坂となり、裏門へ通じている。
私は病棟委員からさらに自治会役員になり、会員であった死者の冥福を祈るため、何回か自治会代表として霊安所を訪れた。
一坪に満たない三和土(たたき)、三坪程の広さの部屋の畳は黒ずんで湿っている。
その奥の柩を置く場所の前には、すっかり古くなって、ただみすぼらしいだけの蓮の花の造花一対と、灰が固く固まってしまい、その上にうっすらと埃が溜まっている白磁(はくじ)色の線香立が無造作に置かれている。荒れ果てた部屋の不気味さと、おぞましさをさらに倍加しているようだ。
ごく最近、霊安室でのささやかな祈りのあと、遺体の入った柩を持ち帰った家族が、告別式を済ませて最期の別れをするために柩の蓋を開けたところ、全く見知らぬ他人であった、という噂が囁かれたことがある。それ程に、死は頻繁にこの療養所に訪れ、屍体安置所は常に混み合い、祭壇に複数の柩が並ぶことは珍しくなかった。
霊安所の隣室は解剖室になっている。ある時、病棟に連絡を入れるため、予め看護婦から借りてきた鍵で隣の解剖室の戸を開き、電話を使おうとその室内に入った。台の上には全く無造作に、白布のかかった二つの遺体が丸太棒のように置かれている。
あちこちの壁がはがれ、黒ずんでしまった白壁の棚には、ホルマリンづけの、肺を主とした臓器の標本のガラス容器が、カルテ番号であろうか、数字と日付を貼られて寒々と並んでいる。
片方の屍体の白布から、ニューと突き出した、垢のこびりついたカサカサの足の一本が、通話のため受話器を把った私の着物の袖に絡んで、遺体がグラッと動いた。
全ての細胞が死に、ただ一個の物体と化した肉体は、本来その人が持っていた尊厳も、そして僅かな権威すらも完全に抜け出てしまって、ただただ不気味で醜悪な存在として解剖室に置かれている。
結核は未だ死病なのである。
アイスクリーム
隅田寮にいた頃のことである。
三号室に藤原美恵子という少女が居た。
十七歳、青山学院生で、食事の時以外は殆ど寝たきりの安静度二度の患者である。
喉頭結核を併発しているので、声帯を使わず息を調整して囁くように話す。
夕食を済ませてから、何の用だったか彼女の隣の、寮委員をしている成清さんを訪ねた時、彼女は書見台の本を静かに読んでいた。初めての出会いであった。
広い額、長い睫(まつげ)と、青い程に濁りのない白眼に囲われた大きな眸の、痛いような透明感は知性を感じさせる。濁りのない白い肌、よく通った鼻すじ、毛布を目深にしているが、全体を被(おお)いこんでいる不思議な透明感。藤原という姓から、私は薄紫のガラスの薔薇を連想した。
成清さんは温厚な四十歳ぐらい、上品な女性で熱心なカソリック信者である。
二人のベッドの間にある椅子を勧められ、所用を済ませてから私は雑談を始める。
彼女は十七歳の少女特有のはにかみで、私に目礼しただけで読書を続けていた。しかしいつしか、私たちの会話の中に囁く声で、遠慮がちに入ってくるようになった。
夕食から就寝までの時間帯は、見舞いの客も帰り、看護婦の行き来もなく、患者たちにとって最も孤独を感じさせる時である。
そんな理由(わけ)か、私と成清さんとの会話の中に、かなり多く彼女も入ってくるようになり、いつしか読書をやめ、控え目な言葉とともに私たちの御饒舌(おしゃべり)の仲間になっていた。成清さんは年齢的にも彼女の母親といった役割で、穏やかな微笑みの中でじっと彼女を見つめている。
隅田寮の外科手術病棟化によって、彼女たちはともに高尾別館八号室に移ってきた。
成清さんは窓際に、彼女はその隣と、ベッドの位置は変わらない。しかし病状は進んできたのか、隅田寮では体を起こして食事をしていたのが、高尾別館に来てからは殆ど寝たまま食事を取っている。
付添いの小母さんがついて彼女の世話をしている。佐藤さんという、六十歳程の無愛想な人だが、親身になって見てくれている。
私は彼女が高尾別館に来た頃にはすっかり親しくなっていて、父親という人にも、自治会がらみでお世話になった。
お父さんはテーチクレコードの部長さんとかで、私が自治会の文化部長であった頃は、まだ手に入れることの難しかったレコード購入に、いろいろと便宜を図ってもらったことがある。
自宅は大田区雪ケ谷にあり、母親もまた結核を患い、亡くなったそうである。今は新しい母との間に小学生の妹がいるとのことだが、入院後は、母という人も、妹にも一度も会っていないという。
この頃には成清さんの勧めでカソリックの洗礼を受け、心の平安を得ているように見えた。
私に対しては、兄に対するように接してくれる。時には甘え、時には怒る、というよりは怒ったふりをする。私が順調に回復し外気舎に移ったあとも、毎日のように彼女に会いに高尾別館を訪ねた。傍目にも仲のよい兄妹のようだと、同室の人たちに言われた。
コウセキラヂオを造って、彼女にプレゼントした時の、彼女の目の輝きは忘れられない。レシーバーを耳に充行うと感度もよく、シンフォニーなども澄んだ音を出す。
寝たきりの彼女にどれ程の慰めを与えてくれるのか、そう思っただけで、染々(しみじみ)とした幸福感に私は浸る。
私が外気舎に移って暫くして、彼女の体調はさらに悪化し、筑波寮の個室に移っていく。
毎夕訪ねる習慣が所用で果たせなかった時など、翌日訪ねると拗ねたように口を尖らす。時には悲しそうな顔をする。個室の中でたった独り横たわる彼女に接すると、切ない程に胸が迫る。
頬がうす赤く、目も潤んでいる時、私はそっと広い額に手を当てる。
「熱はどのくらい?」
と尋ねる。
「今日は七度六分。食欲はないの」
と訴える。
筑波寮へ移ってからは付添さんも変わり、身体の不調と合わせて、淋しさが弥増(いやま)してくるのだろう。
私は昭和二五年、体調もすっかり回復し、四年間を過ごした保生園をあとにすることになった。
退院したあとも、隔週の診察日には必ず彼女の病室を見舞いに立ち寄る。微熱が続き、時には八度近くにもなるという。
何かしてあげられないかと気を揉むが、
「いいの……ただ病院に来た時は必ず寄って……」
と言う。
ある診療日。
初秋の日射しが、松の枝ごしに浅く病室に差し込み、コスモスの一群が一杯の花をつけて風に揺らぐ。
窓のカーテンを引きながら、
「今度来る時、何か欲しいものない」
と聞く。どんな時も「ない」と答える彼女だったが、今日は遠慮がちに、
「アイスクリームが欲しい」
という。
戦後の食糧事情も徐々に好転してきたとはいえ、アイスクリームはこの病院のあたりには未だなかった。
「わかった。きっと持ってくるよ」
彼女の手を握って「頑張るんだよ」と言うと、私の手を痛い程強く握り返しながら頷(うなず)く。しかし澄んだ大きな眸は縋(すが)るように私を見つめる。
青い程に濁りのない白眼は、熱に潤んでうす赤く染まっていた。
「帰らないで……」
彼女はさらに小さく囁く。
ちょうどそこに付添人が来て、私は思わず立ち上った。「よろしくお願いします」と言い残し、彼女をちらりと見て廊下に出た。面会時間が終わり、さらに病室に留まることは許されない。後ろ髪を引かれる想いで病院をあとにした。
目速く変わる窓外の、夕色濃い景色を半ば眺めながら、釣革に掴まり、電車の揺れに身を任せてはいたが、彼女の最後の言葉を思い起こし、不安と悔いを覚えた。悔いは身心深くに巣くって放れない。もう少し傍らにいてあげたらと、私の心は深く苛まれた。
二週間後。
診療を済ませ、筑波の病棟へ急ぐ。新宿で買い求めたアイスクリームは、もう溶けかかっている。
急ぎ足で彼女の病室のドアを開ける。
勝手が違う。
私は病室を間違えたと思い、入口の番号を見る。
間違いない。
しかし、彼女の名札はない。
室内には藁マット剥き出しの鉄のベッドがただ一つ、ポツンと置かれている。彼女を含めて、全てが消えてなくなっている。
信じられなかった。
ドアを開ければ必ず彼女がいて、私に向かって微笑む。いつもそうだった。
今日もそうである筈なのだ。
地の底にすうと引き込まれるような衝撃が心を走る。
私を認めて付添人が慌しく駆け寄る。
「亡くなったの、もう一週間になるかしら」
さらに言い訳するように、
「おうちの人も――さんに連絡したいと言われ住所を探したけど、どこにもなくて」
と言う。
電話はまだ余り普及していない頃で、住所を知らせておかなかった私の落ち度である。
しかし、まさか突然逝ってしまうなど思いも寄らないことだった。
私は呆然としてベッドに腰を下ろし、ガランとした部屋を見回す。
あれ程に控え目の彼女が、「帰らないで」と願ったのは余程淋しかったに違いない。
それなのに……。
涙が出てきた。止まらなかった。
数日たって、雪ケ谷の彼女の自宅を訪ねる。面識のある父親は不在で、母という人が応対に出た。
私のことは聞いているらしく、来意を告げるとすぐ霊前に案内された。仏式の飾りの中に、彼女の写真と俗名の白木の位牌、白い瀬戸の骨壷が置かれている。
洗礼した彼女は今、仏として祀(まつ)られている。
彼女ではない。彼女はもう何処にもいないのだ。
持参の花束を供え、線香を上げる。
彼女は答えない。私は謝ることも出来ない。
彼女と交わしたたわいもない会話すらそこには存在せず、ただ白い瀬戸の骨壷という冷たい物体だけがそこにある。
帰り際に、暗い廊下の向こう側、五、六歳の女の子が、隠れるようにして私を見つめていた。
「妹さんですか?」
随分会いたがっていたが、希望は適(かな)えられなかったろう。
母なる人へ挨拶もそこそこに辞去する。
帰り途、駅近く、社(やしろ)の杜(もり)の奥にある、人気のないベンチに身を委ね、木漏れ日の中でざわめく木々を、虚(うつ)けたように見つめていた。
彼女はもう二十歳を超えていた筈である。