第一章 結核 ― 死病との出会い
入院
その町は、夏の午後の暑い日射しの中に、すっかり乾ききって眠っていた。
自動車の轍(わだち)に、あちこち浅く抉(えぐ)られた駅前通りは、時折吹いてくる風に阿(おもね)るように、小さな砂埃を舞い上げている。
私たちは、線路沿いの道のはずれを左に、さらに家並みの切れたあたりから一続きになっている畠の中の道を右に曲がる。生垣に囲まれた農家の庭の先、道一杯に覆い被さるように茂る孟宗竹(もうそうちく)の一(ひとむら)群が、強い日射しから私たちを守ってくれて、ほんの少しの時間だが憩いの場所を与えている。
戦争が激しくなった頃から廃線になっている貯水池行の単線の踏み切りを越え、真っすぐに伸びた道の行く手には、狭山の丘陵が乾いた青い姿で長く横たわっていた。
その丘陵の南斜面にへばりつくように点々と繋がる白い建物たち、それが私の終(つい)に辿り着くべき保生園である。
外来診察室。微熱を伴った肌に触れる聴診器のヒンヤリとした感触が、今日まで、昼となく夜となく、飽くことなく不安と絶望を与え続けてきた私の肺に、一瞬の安堵と安らぎを与えてくれる。
高尾寮 五号室。
これからの生活、私の二十年の人生における最後(いやはて)の場所となるかも知れないところである。
私が導かれたこの病室は六人部屋で、真中に二メートル×一メートル程のテーブルがあり、両側にベッドが三つずつ置かれてある。廊下に面して一つだけ空いているベッドの脇の床頭台に、私は持参した荷物を置く。
付き添って来てくれた母や宮田ヂイサンの帰ったあと、すっかり歪んでしまっている藁(わら)ベッドの上に持参の蒲団を敷く。テックス張りの天井には雨の染みがさまざまな象形を描き出している。仰きになってそれを眺めていると、ひしひしとした孤独が迫り、遣(や)りきれない程の敗北感に不覚の涙が出た。
診療棟に繋がる廊下のあたり、けたたましく怒鳴る男の声で私は浅い眠りを覚まされた。
午後五時。
同室の先輩たちは、
「さあ、食事だ」
と、一様にベッドから起きだす。
慶應大学の学生で、あと数日で退院するという隣のベッドの田中さんが、
「あの声はね、賄いの安さんといって、脳が少し可笑(おか)しいのだけれど病院の名物男ですよ。力があるので配膳車を押し上げる役です」
と教えてくれた。
夕食の主食はメリケン粉のダンゴが三つ。味は全くついていない。副食はヒジキと油揚げの煮つけ、それにタクワン二切れと薄い菜葉のオツユ。これでは栄養を最も必要とする消耗性疾患のテーベ(結核)にとっては、全く死を意味するような食事である。
しかし日本全体が食糧難に喘(あえ)いでいる時期、これ以上のメニュウを求めることは無理な注文かも知れない。
だから患者たちは自己防衛上、私物の電気ヒーターと鍋、調味料やバター、油、ノリなどの補食材料を床頭台の奥に入れている。ダンゴはヒーターで焼き、バターや醤油をつけて食する。オツユは味噌をたして味をつけるなどしている。
フライパンで卵焼きを作っている者もいる。
ある患者の付添いの老婆は、廊下の片隅の七輪で米を炊き、病人に与えていた。
食事時で電熱器の使用のピークに達した時、病棟は屡々(しばしば)停電するらしい。その度に病棟内の電気に詳しい患者の何人かが廊下に出てきて、ドライバー片手にヒューズボックスを覗いて修理をするのだそうだ。
私は早速、母宛の書状に必要なものを書き出して投函を依頼することにした。
夕食から消燈までの時間の中に、このサナトリュームのクランケ(患者)の生活の私的な部分が凝縮されている。
向かいの窓側のベッドには矢口辰乃助君という、年令二十歳位、小柄で少し痩せているかなといった程度で、全く病気を感じさせない若者がいる。明日にも退院の予定だったが、念のため断層写真を撮る必要から、少し退院の日時を延ばしているそうである。彼は手鏡で、聯(いささ)か短く刈りすぎた髪を櫛で苦心して寝かしつけると、親しくしている看護婦とのデートにいそいそと部屋を出て行く。
こちらの窓側には、浅田という頭を五分刈りにした肉づきのいい、話し方になかなか節度のある二十四、五歳の会社員、一見若い西郷さんを思わせる青年だ。彼は真白な開襟シャツに着がえて、女子病棟である隅田寮にいる親しい患者に会いに出かけて行く。
向かい側、真中のベッドには、私の入室時には不在であったが、食事時、どこからか戻ってきた花ちゃんこと花田弘君。十九歳の小柄な若者、進駐軍スタイルで常にGIの帽子を斜めにかぶって離さない。彼のベッドの周りは、それこそありとあらゆる生活用品やガラクタが山になっている。田中さんの話では、両親を失い、進駐軍関係の仕事をしていたらしいという。小児麻痺を患ったとかで、多少左足を引きずるようにして歩いている。勿論、彼も夕食後は再びどこともなく消えてしまう。
部屋に残ったのは私と隣の田中さん、そして私の反対側の、廊下に面したベッドの橋本さんである。橋本さんは八王子の時計屋さんとかで、子供さんも二人いる三十五、六歳の痩せぎすの柔和な人物、痰がからむのか時々喉を鳴らしている。病状はよくないのだろう。食事の時以外は殆ど寝たきりである。母親という六十を過ぎた老婆が泊りこみで付添い、食事やその他、身の回りの世話をしている。
午後九時。消燈就寝の時間だが、ここでの一日がまだまだ終わらないことは間もなくわかった。
時間近くなると、五号室と廊下を挟んで位置する洗面所に、安静度※の高い患者たちが、それぞれに白い瀬戸びきの痰コップと溲瓶(しびん)を下げて、各病室からやってくる。
安静度の低い寝たきりの患者は、看護婦や付添いが代行する。洗面所はひとしきりそれらの人等で騒然となり、廊下は活気を取り戻す。
※ 安静度……結核安静度は1(重病)〜8(軽度)の8段階で示されている。安静度1、2では、歩行は禁止されている。
しかし、夜勤の看護婦が患者の状態を聞きに来る頃になると、こうしたざわめきも終わり、廊下の電気も暗くなり、室内は消燈される。
夕食後に部屋を出て行った連中が帰ってくるのはこの頃である。
暗い中でゴトゴトやっているうちに、どうやらベッドに潜り込んだらしい。と、それから夜の部が始まる。
誰からというのではないが、病院内のニュース、医者や看護婦の噂、果ては恋愛論や政治論、話題にはことかかない。
はじめのうちは声を押さえて話をしていても、四間×四間、十六坪の病室である。
自然に声も大きくなる。隣の病室から苦情があったのか、看護婦が注意に来る。時間は午後十時を過ぎていた。
病室に静かな寝息が聞こえてきたのは、それから二十分程も経った頃であろうか。
しかし私だけは入院第一日の夜、咳を堪えようと意識するせいか、なかなか寝つかれなかった。
廊下の薄い暗がりの中、どこの病室からか幽(かす)かに咳きこむ音が聞こえてきて、それが深い闇の彼方に吸い込まれてゆき、私の意識もいつかそんな闇にまざりあうようにして、入院第一日の眠りに落ちていった。
発病
私とテーベとの出会いはこの時から四年程前に遡る。
旧制中学四年の時、秋の定期身体検査のⅩ線で、左肺上部に浸潤が発見され、神田三崎町の結核予防会本部で直ちに気胸療法が行なわれた。
生活は平常通りでよいとのことで、特に過激な運動だけは見学するよう指示される。
順調な治療のスタートとなる筈だったが、時代は決して私にこの恵まれた治療の継続を許してはくれなかった。
この年の暮れ(昭和十六年)に太平洋戦争が始まり、学校は軍事訓練と勤労動員とが主流となった。国家の存亡を賭けた時代に、「虚弱な若者は心がけが悪いからだ」という神がかった精神主義に取り憑(つ)かれた教師たちによって、この程度の病気は病気として全く考慮されなかった。
私自身も、弱さを隠し、強がりを示すことによって、集団の中の一員に留まろうと努めた。旧制高校に進む頃には気胸療法も休みがちになり、いつか全く医者に行くことも止めてしまっていた。
大学進学のためのⅩ線間接撮影も、勉学に差し支つかえなしとのことでパスした。
しかし戦局の重大化に伴い、「大学の門は士官学校に通づる」と高言する配属将校の一派が学内に強い発言力を持ちはじめ、病弱の学生はますます片隅に追いやられていった。私も一年間の休学を余儀なくされた。
休学は、確かにテーベとの関(かかわ)づらいには好結果をもたらしたが、復学のあとも戦う学校の姿はさらに厳しく、そして国運は徐々に破滅への淵に近づいていった。学童の集団疎開に始まり、吾が家も田舎へ疎開、私は群馬県下への勤労動員に駆り出された。
昭和二十年三月に東京が大空襲に見舞われ、吾が家の神社も戦災で焼け落ちた。
四月には米英軍が沖縄に上陸、ついに結核病みの私にも召集令状が届いた。第三乙種の私は九十九里浜沿岸防備の現役歩兵二等兵として出征し、炎天の熱砂の九十九里浜に、米英軍の本土上陸に備えて「タコツボ」を掘ることを命じられた。
沖縄作戦に新たに現れたアメリカM1戦車は、日本陸軍最新鋭の大砲でも破壊できなかったことに日本は驚愕した。そのため陸軍は、M1戦車底部の薄い部分に強力な爆雷を仕掛けて破壊する以外策なしと判断し、最も本土上陸の可能性のある九十九里浜に、兵一人一人が潜む穴を掘ることを命じた。兵は、戦車が上陸したら強力な爆雷を抱えて戦車底部に飛び込む。特攻である。
私たちは自らの墓穴(はかあな)を文字通り掘っていたのである。吾々はこれをタコツボと称していた。
再発
昭和二十年八月、終戦。
テーベ再発の兆候は昭和二十一年二月末頃に始まった。仮初(かりそめ)に引いた風邪がどうしても抜けないのである。当時私は、疎開先の家族を迎えいれるため、家を再建することに奔走していた。空襲を受けた実家の神社の社(やしろ)の焼木を製材所に荷車で運び、製材を手伝い、大工の手助けをした。さらに古畳やトタン板を譲り受けに、遠方まで荷車を何度も押した。
こんな状態の中で、栄養の補給もない私の肺は、目覚めたテーベにより未だ健康な部分もどんどん侵略されていった。私の肺を征服しようとするテーベにとっては、全く一方的な戦いである。
はっきりとした敗北の徴候が出はじめたのは、桜の花の散り染める頃、微熱と空咳によって示された。
それまでは、心の片隅にだけ無理に押し込めようとしてきた恐怖に近い不安が、明らかに真実であることを、はっきりと認識しなければならなかった。それは絶対に救いのない完全な絶望であることは、私の今までの経験の積み重ねで理解していた。
テーベとの初めての邂逅(かいこう)において、結核予防会本部という最も恵まれた場所で、当時の先端的な治療で順調に出発した筈の私の闘病生活だったが、自分自身の病気に対する正確な認識の欠如、及び時代の激浪の中で生じた曖昧な妥協とが、私の肉体を破滅の淵にまで追いつめてしまったのである。
タコツボから這い出した私は、再びタコツボに這入る。
私は確実に死ぬのである。
笹本博士
すっかりテーベにより侵略されてしまった自分の胸の中を、Ⅹ線で全てを明らかにされるのを恐れる余り、それまでは医者に診断を乞うのを絶対に拒否してきたが、母の涙ながらの願いで、私は戦災を免れて診療を続けていた近所の都立病院へ出かけて行った。
Ⅹ線の結果は予想通りであった。医者は私に何の指示も与えもせず、「全てが手遅れだ」と言外に含めた言葉を私に放った。医者の、哀れむような視線を背中に強く引きずりながら、索漠とした戦災の跡の街を私はただ当あて所もなく歩いていた。
戦後初めてのメーデーの行列が、焼け残った神田古本屋街をこちらに向かってやってくる。そうか今日は五月一日か、スクラムを組み、健康そのものの歌声を上げてくる。そんな人々から私は逃れるように近くの映画館に入った。暗い座席に座ってスクリーンを見つめていたが、咳が出て映画の観賞を続けることが出来なかった。
そんな絶望の中、飯田橋の今沢伯父が慶應大学病院内科の助教授であった笹本浩先生に診てもらうよう勧めてくれた。笹本博士は母や伯父と幼馴染で、実家のある豊橋でよく遊んだ仲だという。
伯父に連れられ信濃町の病院の、焼失を免れた裏手の研究棟に博士を訪ねた。
笹本博士は全ての診療を終えてから、サナトリュームに入院することを勧めた。
「二年程入っていれば病気もよくなるよ」
と明るく励ますように、笹本博士は私を顧みて笑った。以前と変わらず絶望的病状であることは私もよく知っていたが、先生のこの思い遣りのある励ましは私を深く感動させた。そして博士の友人の勤務する保生園を紹介されたのである。
成す術(すべ)もなく失意の底にあった私は、笹本博士によって生きることへの僅かな希望を与えられたのである。