あとがき

(これは2006年10月の「天国街道」出版時のあとがきです)

結核と結核療養所「保生園」

結核は、結核菌が起こす感染症である。
抗生物質の発見以前はほぼ不治の病とされ、高い確率で死に至るため「死病」とも呼ばれた。古くは「労咳(ろうがい)」とも呼ばれ、これで命を落とした人の中には、武田信玄や沖田総司、正岡子規、陸奥宗光、梶井基次郎などがいる。また、新五千円紙幣の肖像である樋口一葉も、結核のために二十四歳で生涯を閉じている。

日本では、昭和十年から二十五年までは死亡原因のトップを占め、まさに「国民病」であった。ほぼ国民の三十人に一人以上が結核を有しているという状況に対処すべく、我が国では昭和十四年五月に、秩父宮妃殿下を総裁として結核予防会が設立された。同年十月には、第一生命保険相互会社から寄付を受けた施設を用いて、本格療養所「保生園」が東村山の狭山丘陵に開設された。開設当初は結核研究所も併設しており(のちに清瀬に移転)、保生園は結核治療の中心地であった。

本手記を書いた新井義也は、終戦直後の昭和二十一年に保生園に入院し、四年間の療養生活を送った。終戦直後の食糧難の時期であり、筆者も死を覚悟しての入院であった。療養所でも死は隣り合わせの存在であり、「表門から入院して、(死者として)裏門から出て行く」という表現も定着していた。幸い治療の甲斐あって、筆者は昭和二十五年にほぼ完治して退院することが出来たが、それでも、その年の我が国の結核死亡者数は十二万人を超えている。

しかし、この手記を読んでいただければわかるように、患者の多くが生への希望を捨てていない。寮内でのコミュニケーション、演劇や図書館などの文化活動など、保生園には明らかに、療養「生活」があった。筆者は、やがて患者で組織する保友会の文化部長となり、機関紙「魔の山」を発行に携わるが、本家であるトーマス・マンの「魔の山」も、結核を患った青年がスイスのサナトリウムに入院し、さまざまな人との交流、生と死の錯綜のなかで、人間的成長をとげる物語である。筆者と病室をともにした療友も実に多彩な人々であり、その後の筆者の人生に大きな影響を与えた。保生園の退園者が、「保生会」というきわめて珍しい患者同窓会を組織し、今でも同窓の絆を保っているのも、単なる療友というだけではなく、年齢・性別・職業の壁を越えて人生の一部を共有した戦友であるという実感からくるのであろう。

我が国の結核死亡者数はその後急速に低下、昭和三十年には四万七〇〇〇人を切り、昭和四十五年には一万六〇〇〇人となった。もはや結核は死病ではなくなったのである。そこには抗生物質という医療の発達の恩恵もあろうが、同時にそれを実現させてきた結核予防会の努力に負うところが大きい。

保生園はその後、結核からその他の医療分野も網羅する「保生園病院」となり、平成元年からは「新山手病院」と改称、現在では地域一般医療の要となっている。なおこの保生園は、宮崎駿の名作アニメ「となりのトトロ」の舞台としても有名である。保生園(現 新山手病院)は狭山の八国山緑地に位置するが、映画でサツキとメイの母が結核で入院しているのが「七国山病院」である。映画でもサツキとメイが病気の母を見舞うシーンがあるが、緑豊かな環境にこの療養所が建っているのが描かれている。現在、新山手病院がある狭山丘陵一帯は、「トトロの森」として保護されている。

現在、結核登録者は年間約三万人で、平成十六年度の死亡者数は二三二八人である。死亡率は八%であり、早期発見と正しい治療を行えば、結核はほぼ完治できる病になった。しかし、結核を死病と呼んだ時代がはるか過去のものになりつつあるとしても、終戦直後にその治療に真摯に向き合った医師・看護婦・スタッフ、そして無念にも天国街道を昇っていった患者たちがいたことは、今なお、我々の心に深く刻まれる。

(丸田 昭輝)


謝辞

本手記は、故新井義也が昭和二十一年から二十五年における保生園での療養生活を、本人が退院後に記したものです。本手記の出版にあたり、旧仮名遣いなどの分かりにくい表現、あるいは明らかに錯誤と思われる部分には手を加えましたが、編集は最小限にとどめました。

出版においては、保生会の現会長である大場昇さん、前会長で会誌「保生」編集者の石井荘男さんには大変にお世話になりました。特に石井さんには、本手記を会誌「保生」で取り上げていただいたり、当時の状況をご説明いただくなど、本手記の出版のきっかけを作っていただきました。保友会の元会長である小林義治さんからは、療養生活の様子などを教えていただきました。新山手病院総務課長の根本淳子さんには、関連資料を集めていただいたり、関係者に連絡をとっていただくなどのお力添えをいただきました。また、英治出版社長の原田英治さん、出版プロデューサーの鬼頭穣さんには、編集作業において多くのアドバイスをいただきました。あわせてお礼申し上げます。

なお、故人がまとめた手記自体にはタイトルがなく、いきなり本文が始まっていました。これに『天国街道』というタイトルをつけたのは、それが手記のなかで非常に印象的な言葉であったからです。

この天国街道が、いったい保生園のどこにあり、また現在はどうなっているのかを突き止めることは、本手記の編集段階から私たちの課題でした。筆者が天国街道を窓の外に見ていた隅田寮は昭和五十年に取り壊され、また、保生園が保生園病院、さらに新山手病院となる段階で、敷地のかなりの部分が八国山緑地に移転されています。

幸い、清瀬の結核研究所図書館に所蔵されていた『財団法人結核予防会沿革:附保生園設立及沿革』(昭和十九年)に詳細な保生園配置図があり、現在の地形と照らし合わせることで「天国街道」をようやく特定できました。

天国街道は、現在も八国山緑地内にあります。新山手病院前の道を病院に沿って左(西)に一五〇メートルほど歩くと、小さな祠(ほこら)があります。その祠横の八国山緑地入り口から丘を登ると、一〇〇メートルほどで道が二つに分岐している小さな平地に出ます。ここが、かつて霊安室のあった場所と思われます。そこから病院側に下る細い小道が「天国街道」です。

天国街道は、保生園配置図に描かれているそのままの形で現在もあります。現地でこの事実を確認した瞬間、急に過去と現在がつながり、死と生に毎日向き合っていた当時の筆者の思いを共有した感覚に襲われました。

天国街道を無念にも昇っていかれた方々のご冥福をお祈りいたします。

(丸田 昭輝・洋子)



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